■ひっそりと売却された東電ホテルは「電力供給発祥の地」だった
2011年3月11日の東日本大震災と、それに伴う原発事故は、今もなお被災地の人々ばかりか、日本人全体を苦しめている。福島県内に原発があり、そのつくり出す電力によって東京圏の生活が成り立っているということを、この事件によって初めて知ったという人も少なくない。
かくいう私も福島に東京電力の原発があるということは知っていたが、10基もあることは知らなかった。私は新潟県の出身であるが、柏崎市に原発がつくられようとしていることは中学生の頃には知っていた。しかしやはり柏崎市に7基も原発があったことは今回の事件以降に初めて知った。
このように、知らぬ間に東京圏の生活は食料だけでなく、エネルギーも地方に依存するようになっている。さて、しかし、以前はどうしていたのか?
日本で商業用原発が営業を開始したのは、茨城県の東海発電所が稼働を始めた1966年である。それまでは水力発電と火力発電によって電気はつくられていた。
東京電力の前身である東京電燈による、最初の水力発電所は、山梨県北都留(きたつる)郡の桂川に1907(明治40)年につくられた、駒橋水力発電所である。これを東京・早稲田の変電所まで送電した。
2番目は駒橋の下流につくられた八ツ沢水力発電所。3番目は福島県に1914(大正3)年につくられた猪苗代第一水力発電所である。
なんだ、最初から山梨県や福島県といった地方に依存していたのか、と早とちりしてはいけない。水力発電所ができる前は、火力発電所が電力を供給していた。ではその火力発電所の1号はどこにあったか?
答えは日本橋茅場町である。
なんと江戸東京の中心、日本橋の一部だ。つくられたのは、1887(明治20)年。その翌年、千代田区麹町、同神田錦町、中央区銀座三丁目(旧・肴町)、台東区浅草(旧・千束村。今の吉原のソープ街の横)にも発電所はつくられた。これらはすべて小規模な火力発電所であった。
水力発電所をつくるには水源がいる。水源は東京から遠い。遠い所から送電するには、送電時のロスを少なくするための技術が必要だ。
しかし1887年の時点では、日本にはその技術が広まってなかった。そのため、電気を使う都心部に発電所を設ける必要があったのである。
茅場町にできた発電所の電気を使ったのは、東京郵便局、日本郵船、今村銀行(のちの第一銀行、今のみずほ銀行)の3社だった。電気は照明用に使われた。
跡地には現在、相鉄グループのビジネスホテルが建っているが、今年3月までは東京電力の子会社である東電不動産が経営するビジネスホテルだった。売却したお金は、原発事故の賠償金などにあてられるようだ。
■下町名物「オバケ煙突」の誕生
麹町の発電所は主として皇居の照明用だった。皇居での電灯設置は宣伝効果が大きく、その後、電力需要が急増したらしい。今は電気設備になっていて、ワコール麹町ビルと東京FMの間にある。
神田錦町の発電所も電気設備として残っている。長年、隣には東京電機大学があったが、発電所と関係があるのだろうか?
銀座三丁目の発電所は主として新聞社に電気を供給した。1890年、朝日新聞社は発行部数の増加に対応するため、フランスから電動の輪転機を輸入した。これを動かすために電力を購入したのである。
また、東京電燈はみずから輪転機を購入して都新聞と東京新報に納入し、電力を供給した。こうしたところから、電力会社とメディアとが当初からの密接なつながりを持っていたことがわかる。3・11までメディアが原発に対する批判的な記事を書いてこなかったことの遠い背景になっているように思われてならない。
浅草(千束)にあった発電所は、1890年に完成した浅草の凌雲閣に電気を供給した。凌雲閣の起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは東京電燈の技師であった藤岡市助である。凌雲閣は12階建てであったため「十二階」とも呼ばれたが、高さ60メートルの、当時としては「超高層ビル」だ。
この十二階は、頂点にアーク灯をつけ、周囲を満月のように明るく照らしたという。さらに1階から8階まではエレベーターを設置し、各階にも多数の照明が付けられるなど、さながら電気のPR館のような役割を果たした。エレベーターへの電力の供給は、日本初の「動力用電力」の供給事業であった。
十二階のエレベーターはわずか半年で運転が中止されたが、その後東京にデパート、劇場、ホテルなどの近代建築物が次々と建設されていくのに伴って、エレベーター、照明などのための電力需要が飛躍的に増えていくことになるのである。
増大する電力需要に対応して、先に述べた水力発電所の開発とともに、さらに大型で強力な火力発電の建設も進められた。しかし、当時の火力発電は石炭を使っていたため、煤煙や騒音が大きな問題であった。
そのため都心には発電所をつくれない。そこで少し都心から離れたところに発電所がつくられることになった。
まず1895(明治28)年に台東区蔵前の隅田川沿いに、浅草火力発電所が建設された。浅草発電所の開業によって東京市内全域に一括して電力が供給できるようになった。そのため前述の茅場町などの最初の5つの発電所は順次廃止されていった。
次に、1905(明治38)年には荒川区南千住、さらに1926(大正15)年に足立区北千住に、火力発電所がつくられた。
北千住の発電所には巨大な煙突が4本立ち、「オバケ煙突」の名で親しまれた。この発電所は1963年まで稼働した。偶然だろうが、神田錦町の発電装置の隣にあった東京電機大は昨年、千住に移転した。
ここで読者のみなさんは、特に若い方だと、あれ、蔵前って都心じゃないのか、千住だって都心に近いじゃないか、と思われるかもしれない。
たしかに蔵前の南側は馬喰町、東日本橋であり、ほぼ都心といっても間違いない。南千住は浅草のすぐ北である。南千住から隅田川を渡れば北千住である。茅場町から6キロメートルほどしか離れていない。人はたくさん住んでいるし、とても大きな火力発電所が立地するにふさわしい場所だとは思えない。それなのに、なぜ発電所があったのか?
この疑問に答えるには、東京の人口がいつどのように増えて、東京という都市がどういう地域に広がってきたかについて知っておく必要がある。
■下町拡大から「フクシマ」へ
江戸時代、江戸の人口は100万人といわれ、世界でも最大の都市であった。といっても面積は今よりずっと狭い。人口の大半を占める町人たちは、お江戸日本橋から神田あたりにかけての下町で仕事をして住んでいた。
それに対して武士の屋敷の多くは下町の西側にある台地の上、つまり「山の手」につくられた。本郷、麹町、市ケ谷、赤坂、麻布といったあたりである。今の文京区、千代田区(神田周辺は除く)、港区にほぼ相当する。
このように、川に近い低地(下町)には町人などの庶民が住み、台地(山の手)には武士が住むという形式が、その後、東京の人口が増えつづけていく過程の中でも踏襲されていく。つまり、主に労働者階級の人々が住む場所は日本橋、神田界隈から北や東に広がる低地に広がってゆく。それに対して比較的裕福なホワイトカラーの人々の住む場所は、本郷、麹町、麻布あたりからさらに西へ西へと広がっていく。
こうした山の手と下町の歴史は、それぞれ4つの段階に分けられる。今回は下町についてのみ書くことにするが、「第一下町」は江戸時代以来の下町で、日本橋、神田あたり。「第二下町」は明治末期から大正時代に下町化したところで、浅草、芝(*)あたり。「第三下町」は大正から昭和初期、特に関東大震災後にできた下町で、本所、深川、向島、東日暮里(三ノ輪)あたり。「第四下町」は昭和以降、特に戦後に人口が増えた足立区、葛飾区、江戸川区あたりと考えることができる。
江戸時代、浅草は下町ではなかった。浅草寺にお参りに行ったり、吉原に遊びに行ったりする場所であって、町人は住んでいなかった。浅草寺の西側は大きな池だったし、吉原も田んぼの中に長崎の出島のようにしてつくられた。明治に入ってからも浅草に住む人々は、日本橋方面に行くとき「江戸」に行くと言っていたらしい。
この浅草が下町と呼ばれるようになるのは、明治の末期、ちょうど十二階ができた1890年以降からだと考えてよい。その後、東京の人口は1900年には150万人、1910年には191万人と増えてゆく。ちなみにここでいう東京市は、現在の千代田区、中央区、台東区、文京区、港区、豊島区、江東区にあたり、それより外側はまったくの農村地帯だった。
しかし1920年(大正9年)になると、東京市の人口は郊外の農村部にあふれ出す。江戸東京学の権威、小木新造によれば、東京市に隣接する18ヵ町の人口は1920年の64万人から1928年(昭和3年)には107万人に、さらにその外側の16ヵ所町の人口は同じく26万人から86万人に、またその外側の23ヵ町村の人口は14万人から44万人に増加している(『江戸東京学』都市出版社)。
このため1932年(昭和7年)にはそれらの町村を区に格上げして東京市に編入し、東京市は35区なる「大東京」として新しい歴史をスタートさせたのである。ちなみに十二階は1923(大正12)年の関東大震災で倒壊。下町のシンボルは、十二階から「オバケ煙突」に変わったのである。
つまり、最初の発電所は、茅場町、神田錦町、銀座三丁目という「第一下町」を中心につくられた。しかし、人口が増え、煤煙、騒害が問題になると「第二下町」の蔵前に発電所をつくり、次いで「第三下町」の南千住に、さらに、昭和に入り「大東京」の時代が近づくと「第四下町」の足立区に発電所をつくったと言うことができる。その時代時代においてまだあまり人が住んでいない地域に発電所をつくってきたのである。
言いかえれば、東京は、その人口の増加、都市の近代化に伴って、都市の中にあることがふさわしくない危険なものを外側へ、外側へと追い出してきた歴史を持っていると言うことができよう。その最後の形が福島や新潟への原発の建設だったのである。
【第2回は9月初旬アップの予定です】 【関連記事】
・「新エネルギー革命」実現のために日本の政治がすべきこと
・フクイチで最悪の放射性物質が海に流れ出始めている?
・ネットによって失われる、“見えないもの”への想像力
・思想家・東浩紀が重大提言「僕は福島第一原発観光地化計画を提案します」
・思想界のリビングレジェンド・見田宗介(東大名誉教授)から3.11後を生きる若者たちへのメッセージ。「人間はようやく地上に〝天国〟を実現する段階に達した感じがします」
2011年3月11日の東日本大震災と、それに伴う原発事故は、今もなお被災地の人々ばかりか、日本人全体を苦しめている。福島県内に原発があり、そのつくり出す電力によって東京圏の生活が成り立っているということを、この事件によって初めて知ったという人も少なくない。
かくいう私も福島に東京電力の原発があるということは知っていたが、10基もあることは知らなかった。私は新潟県の出身であるが、柏崎市に原発がつくられようとしていることは中学生の頃には知っていた。しかしやはり柏崎市に7基も原発があったことは今回の事件以降に初めて知った。
このように、知らぬ間に東京圏の生活は食料だけでなく、エネルギーも地方に依存するようになっている。さて、しかし、以前はどうしていたのか?
日本で商業用原発が営業を開始したのは、茨城県の東海発電所が稼働を始めた1966年である。それまでは水力発電と火力発電によって電気はつくられていた。
東京電力の前身である東京電燈による、最初の水力発電所は、山梨県北都留(きたつる)郡の桂川に1907(明治40)年につくられた、駒橋水力発電所である。これを東京・早稲田の変電所まで送電した。
2番目は駒橋の下流につくられた八ツ沢水力発電所。3番目は福島県に1914(大正3)年につくられた猪苗代第一水力発電所である。
なんだ、最初から山梨県や福島県といった地方に依存していたのか、と早とちりしてはいけない。水力発電所ができる前は、火力発電所が電力を供給していた。ではその火力発電所の1号はどこにあったか?
答えは日本橋茅場町である。
なんと江戸東京の中心、日本橋の一部だ。つくられたのは、1887(明治20)年。その翌年、千代田区麹町、同神田錦町、中央区銀座三丁目(旧・肴町)、台東区浅草(旧・千束村。今の吉原のソープ街の横)にも発電所はつくられた。これらはすべて小規模な火力発電所であった。
水力発電所をつくるには水源がいる。水源は東京から遠い。遠い所から送電するには、送電時のロスを少なくするための技術が必要だ。
しかし1887年の時点では、日本にはその技術が広まってなかった。そのため、電気を使う都心部に発電所を設ける必要があったのである。
茅場町にできた発電所の電気を使ったのは、東京郵便局、日本郵船、今村銀行(のちの第一銀行、今のみずほ銀行)の3社だった。電気は照明用に使われた。
跡地には現在、相鉄グループのビジネスホテルが建っているが、今年3月までは東京電力の子会社である東電不動産が経営するビジネスホテルだった。売却したお金は、原発事故の賠償金などにあてられるようだ。
■下町名物「オバケ煙突」の誕生
麹町の発電所は主として皇居の照明用だった。皇居での電灯設置は宣伝効果が大きく、その後、電力需要が急増したらしい。今は電気設備になっていて、ワコール麹町ビルと東京FMの間にある。
神田錦町の発電所も電気設備として残っている。長年、隣には東京電機大学があったが、発電所と関係があるのだろうか?
銀座三丁目の発電所は主として新聞社に電気を供給した。1890年、朝日新聞社は発行部数の増加に対応するため、フランスから電動の輪転機を輸入した。これを動かすために電力を購入したのである。
また、東京電燈はみずから輪転機を購入して都新聞と東京新報に納入し、電力を供給した。こうしたところから、電力会社とメディアとが当初からの密接なつながりを持っていたことがわかる。3・11までメディアが原発に対する批判的な記事を書いてこなかったことの遠い背景になっているように思われてならない。
浅草(千束)にあった発電所は、1890年に完成した浅草の凌雲閣に電気を供給した。凌雲閣の起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは東京電燈の技師であった藤岡市助である。凌雲閣は12階建てであったため「十二階」とも呼ばれたが、高さ60メートルの、当時としては「超高層ビル」だ。
この十二階は、頂点にアーク灯をつけ、周囲を満月のように明るく照らしたという。さらに1階から8階まではエレベーターを設置し、各階にも多数の照明が付けられるなど、さながら電気のPR館のような役割を果たした。エレベーターへの電力の供給は、日本初の「動力用電力」の供給事業であった。
十二階のエレベーターはわずか半年で運転が中止されたが、その後東京にデパート、劇場、ホテルなどの近代建築物が次々と建設されていくのに伴って、エレベーター、照明などのための電力需要が飛躍的に増えていくことになるのである。
増大する電力需要に対応して、先に述べた水力発電所の開発とともに、さらに大型で強力な火力発電の建設も進められた。しかし、当時の火力発電は石炭を使っていたため、煤煙や騒音が大きな問題であった。
そのため都心には発電所をつくれない。そこで少し都心から離れたところに発電所がつくられることになった。
まず1895(明治28)年に台東区蔵前の隅田川沿いに、浅草火力発電所が建設された。浅草発電所の開業によって東京市内全域に一括して電力が供給できるようになった。そのため前述の茅場町などの最初の5つの発電所は順次廃止されていった。
次に、1905(明治38)年には荒川区南千住、さらに1926(大正15)年に足立区北千住に、火力発電所がつくられた。
北千住の発電所には巨大な煙突が4本立ち、「オバケ煙突」の名で親しまれた。この発電所は1963年まで稼働した。偶然だろうが、神田錦町の発電装置の隣にあった東京電機大は昨年、千住に移転した。
ここで読者のみなさんは、特に若い方だと、あれ、蔵前って都心じゃないのか、千住だって都心に近いじゃないか、と思われるかもしれない。
たしかに蔵前の南側は馬喰町、東日本橋であり、ほぼ都心といっても間違いない。南千住は浅草のすぐ北である。南千住から隅田川を渡れば北千住である。茅場町から6キロメートルほどしか離れていない。人はたくさん住んでいるし、とても大きな火力発電所が立地するにふさわしい場所だとは思えない。それなのに、なぜ発電所があったのか?
この疑問に答えるには、東京の人口がいつどのように増えて、東京という都市がどういう地域に広がってきたかについて知っておく必要がある。
■下町拡大から「フクシマ」へ
江戸時代、江戸の人口は100万人といわれ、世界でも最大の都市であった。といっても面積は今よりずっと狭い。人口の大半を占める町人たちは、お江戸日本橋から神田あたりにかけての下町で仕事をして住んでいた。
それに対して武士の屋敷の多くは下町の西側にある台地の上、つまり「山の手」につくられた。本郷、麹町、市ケ谷、赤坂、麻布といったあたりである。今の文京区、千代田区(神田周辺は除く)、港区にほぼ相当する。
このように、川に近い低地(下町)には町人などの庶民が住み、台地(山の手)には武士が住むという形式が、その後、東京の人口が増えつづけていく過程の中でも踏襲されていく。つまり、主に労働者階級の人々が住む場所は日本橋、神田界隈から北や東に広がる低地に広がってゆく。それに対して比較的裕福なホワイトカラーの人々の住む場所は、本郷、麹町、麻布あたりからさらに西へ西へと広がっていく。
こうした山の手と下町の歴史は、それぞれ4つの段階に分けられる。今回は下町についてのみ書くことにするが、「第一下町」は江戸時代以来の下町で、日本橋、神田あたり。「第二下町」は明治末期から大正時代に下町化したところで、浅草、芝(*)あたり。「第三下町」は大正から昭和初期、特に関東大震災後にできた下町で、本所、深川、向島、東日暮里(三ノ輪)あたり。「第四下町」は昭和以降、特に戦後に人口が増えた足立区、葛飾区、江戸川区あたりと考えることができる。
江戸時代、浅草は下町ではなかった。浅草寺にお参りに行ったり、吉原に遊びに行ったりする場所であって、町人は住んでいなかった。浅草寺の西側は大きな池だったし、吉原も田んぼの中に長崎の出島のようにしてつくられた。明治に入ってからも浅草に住む人々は、日本橋方面に行くとき「江戸」に行くと言っていたらしい。
この浅草が下町と呼ばれるようになるのは、明治の末期、ちょうど十二階ができた1890年以降からだと考えてよい。その後、東京の人口は1900年には150万人、1910年には191万人と増えてゆく。ちなみにここでいう東京市は、現在の千代田区、中央区、台東区、文京区、港区、豊島区、江東区にあたり、それより外側はまったくの農村地帯だった。
しかし1920年(大正9年)になると、東京市の人口は郊外の農村部にあふれ出す。江戸東京学の権威、小木新造によれば、東京市に隣接する18ヵ町の人口は1920年の64万人から1928年(昭和3年)には107万人に、さらにその外側の16ヵ所町の人口は同じく26万人から86万人に、またその外側の23ヵ町村の人口は14万人から44万人に増加している(『江戸東京学』都市出版社)。
このため1932年(昭和7年)にはそれらの町村を区に格上げして東京市に編入し、東京市は35区なる「大東京」として新しい歴史をスタートさせたのである。ちなみに十二階は1923(大正12)年の関東大震災で倒壊。下町のシンボルは、十二階から「オバケ煙突」に変わったのである。
つまり、最初の発電所は、茅場町、神田錦町、銀座三丁目という「第一下町」を中心につくられた。しかし、人口が増え、煤煙、騒害が問題になると「第二下町」の蔵前に発電所をつくり、次いで「第三下町」の南千住に、さらに、昭和に入り「大東京」の時代が近づくと「第四下町」の足立区に発電所をつくったと言うことができる。その時代時代においてまだあまり人が住んでいない地域に発電所をつくってきたのである。
言いかえれば、東京は、その人口の増加、都市の近代化に伴って、都市の中にあることがふさわしくない危険なものを外側へ、外側へと追い出してきた歴史を持っていると言うことができよう。その最後の形が福島や新潟への原発の建設だったのである。
【第2回は9月初旬アップの予定です】 【関連記事】
・「新エネルギー革命」実現のために日本の政治がすべきこと
・フクイチで最悪の放射性物質が海に流れ出始めている?
・ネットによって失われる、“見えないもの”への想像力
・思想家・東浩紀が重大提言「僕は福島第一原発観光地化計画を提案します」
・思想界のリビングレジェンド・見田宗介(東大名誉教授)から3.11後を生きる若者たちへのメッセージ。「人間はようやく地上に〝天国〟を実現する段階に達した感じがします」