『あまちゃん』ブームで今年、人気が再燃した80年代アイドル。
“アイドル黄金時代”と呼ばれたこの時期、300人余りのアイドルやアーティストを世に送り出した“伝説のプロデューサー”酒井政利(さかい・まさとし)氏が、80年代アイドルの魅力を語る!
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私のプロデュースの原点となっているのは南沙織さんです。1970年頃は、辺見マリさんや奥村チヨさんといった“アダルトな歌手”が人気を集めていました。そこで私は逆にターゲットを若い中高生に絞って、「アイドル作戦」を展開しようって。その第一号が彼女だったんです。
ちなみに当時はアイドルという言葉は一般的ではなく、「青春スター」や「青春歌手」といった言葉が使われていました。だから日本のアイドル第一号は南沙織さんなんです。
デビュー曲のタイトルを『17才』にしたのは、中高生たちの世代的な共感を狙ったからです。その狙いは的中し、大ヒットとなりました。
山口百恵さんも思い出深い歌手のひとりです。和風の整った顔立ちをしており、少し“影”があるところもよかった。しかし、デビュー曲はライバルの桜田淳子さんや森昌子さんを意識しすぎたせいもあり、思った以上にセールスは伸びませんでした。
そこで、2作目から路線を変更して、過激な言葉でテーマをドーンと投げてみようって。それが、『青い果実』でした。結果的にこれが大成功。ただ、歌詞の過激さで話題になった分、「女子中学生にこういう歌を歌わせていいのか」という反発もかなりありましたけどね。
そして80年代。80年代前半はそれぞれのキャラクターが確立されていたように思います。天真爛漫で少女っぽさを残した松田聖子、影があって少し不良っぽい中森明菜、ファッショナブルでカルチャーを発信していた小泉今日子……といった感じです。
そんななか、82年にプロデュースした三田寛子さんも、聖少女にたとえたくなるような雰囲気を持っているコでしたね。デビュー曲は作曲を井上陽水さん、詞を阿木燿子さんにお願いし、タイトルは『駈けてきた処女(おとめ)』。
処女と書いて“おとめ”と読ませたのは戦略です(笑)。私は死語を使うのが好きなんですよ。おとめもその典型で死語だけど、処女と書いておとめと読ませれば新しいかなって(笑)。でも、おとめというのがぴったりの声と雰囲気を持っていましたね。
さて、80年代も後半に入ると、アイドルとして未成熟なものが受けだします。アイドルは手の届かない存在ではなく、ファンとの間がぐっと近くなるんですね。
それは時代が求めていたからともいえます。世の中が重いメッセージ性のあるものを求めているときに軽い曲ははやりません。その逆もしかり。ですから、未成熟なアイドルが受けだしたのは、世の中が求めているものにピタッと合致したからなんです。
宮沢りえさんのプロデュースも引き受けたのは、そんな80年代が終わる頃でした。彼女の第一印象は鮮烈で、文句のつけようがない顔立ち、抜群のプロポーション、そこにあどけなさが加わって、ものすごいパワーを感じました。
新時代の新しいスターをつくり出そうと、時代に先駆けて小室哲哉さんにサウンドプロデュースを依頼。そうして出来上がった『ドリームラッシュ』は、たちまちヒットチャートの上位にランクイン。
90年代に入ると“個”の時代は終わり、アイドルのグループ化が目立ち始め、その流れは今も続いています。“個”とグループ、それぞれによさはありますが、私自身は70年代、80年代の個の時代は面白かったと思います。それぞれにライバルがいて、お互いが触発し合うなかで後世に残る素晴らしい作品が出来上がっていく。そういう意味で、今、私は個で勝負できる若いプロデューサーを育成していきたいと思っているんです。
(取材・文/浜野清史 撮影/本田雄士)
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ちなみに当時はアイドルという言葉は一般的ではなく、「青春スター」や「青春歌手」といった言葉が使われていました。だから日本のアイドル第一号は南沙織さんなんです。
デビュー曲のタイトルを『17才』にしたのは、中高生たちの世代的な共感を狙ったからです。その狙いは的中し、大ヒットとなりました。
山口百恵さんも思い出深い歌手のひとりです。和風の整った顔立ちをしており、少し“影”があるところもよかった。しかし、デビュー曲はライバルの桜田淳子さんや森昌子さんを意識しすぎたせいもあり、思った以上にセールスは伸びませんでした。
そこで、2作目から路線を変更して、過激な言葉でテーマをドーンと投げてみようって。それが、『青い果実』でした。結果的にこれが大成功。ただ、歌詞の過激さで話題になった分、「女子中学生にこういう歌を歌わせていいのか」という反発もかなりありましたけどね。
そして80年代。80年代前半はそれぞれのキャラクターが確立されていたように思います。天真爛漫で少女っぽさを残した松田聖子、影があって少し不良っぽい中森明菜、ファッショナブルでカルチャーを発信していた小泉今日子……といった感じです。
そんななか、82年にプロデュースした三田寛子さんも、聖少女にたとえたくなるような雰囲気を持っているコでしたね。デビュー曲は作曲を井上陽水さん、詞を阿木燿子さんにお願いし、タイトルは『駈けてきた処女(おとめ)』。
処女と書いて“おとめ”と読ませたのは戦略です(笑)。私は死語を使うのが好きなんですよ。おとめもその典型で死語だけど、処女と書いておとめと読ませれば新しいかなって(笑)。でも、おとめというのがぴったりの声と雰囲気を持っていましたね。
さて、80年代も後半に入ると、アイドルとして未成熟なものが受けだします。アイドルは手の届かない存在ではなく、ファンとの間がぐっと近くなるんですね。
それは時代が求めていたからともいえます。世の中が重いメッセージ性のあるものを求めているときに軽い曲ははやりません。その逆もしかり。ですから、未成熟なアイドルが受けだしたのは、世の中が求めているものにピタッと合致したからなんです。
宮沢りえさんのプロデュースも引き受けたのは、そんな80年代が終わる頃でした。彼女の第一印象は鮮烈で、文句のつけようがない顔立ち、抜群のプロポーション、そこにあどけなさが加わって、ものすごいパワーを感じました。
新時代の新しいスターをつくり出そうと、時代に先駆けて小室哲哉さんにサウンドプロデュースを依頼。そうして出来上がった『ドリームラッシュ』は、たちまちヒットチャートの上位にランクイン。
90年代に入ると“個”の時代は終わり、アイドルのグループ化が目立ち始め、その流れは今も続いています。“個”とグループ、それぞれによさはありますが、私自身は70年代、80年代の個の時代は面白かったと思います。それぞれにライバルがいて、お互いが触発し合うなかで後世に残る素晴らしい作品が出来上がっていく。そういう意味で、今、私は個で勝負できる若いプロデューサーを育成していきたいと思っているんです。
(取材・文/浜野清史 撮影/本田雄士)
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