日本で生まれ、中国で自分の存在意義を知り、生きる道を決めたぼくがやるべきことはなんなのか。約1年ぶりに“帰省”した中国で、それを再確認しました。
思いもかけない歓待を受けると、人は素直に感動するもの。それが自分と因縁のある土地や人であるならなおさらだ。
アメリカに拠点を置いて約1年。この夏を迎えるまで、ぼくはあえて中国と距離をとっていた。しかし、米中関係を研究する以上、習近平(しゅうきんぺい)体制となった現地の空気を肌で感じる必要性は常に認識していた。そんな折、かつて頻繁に仕事をしていたCCTV(中国中央電視台)などから誘いを受け、久しぶりに“里帰り”してみることにしたのです。
約1年ぶりに降り立った北京空港。もちろん懐かしさはありましたが、心境は複雑です。ぼくは中国で言論活動を行なう日本人として、当局からマークされていた存在。果たして無事に入国できるのか。
出入国審査場へ行き、パスポートを差し出すと、男性係員が険しい表情で質問してきます。
「あなたは北京語が話せますか?」
はい、大丈夫です。
「どこで勉強したんですか?」
北京大学で勉強しました。
こういった定型のやりとりの後、係員は急に表情を緩め、意外な言葉を口にしました。
「お帰りなさい、加藤さん」
最初は何を言われているのかわかりませんでした。係員はパスポートに入国許可のスタンプを押しながら続けます。
「あなたの書くものはよく読んでいます。日本人だから大変だと思うけど、少なくとも私は応援しています」
素直に感動しました。
自らの意思でいったん別れを告げたこの土地がぼくをどう見ているのか、どの面(つら)下げて帰ればいいのか、正直言って不安だった。それが杞憂に終わったどころか、予想もしていなかった親身な言葉までかけてもらえたのですから。
CCTVのインタビューを受けたときも、懇意にしているディレクターからこう言われました。
「あなたは自分で思っている以上に中国で影響力のある人だ。だからこの国の人間は、加藤さんを誹謗中傷したり足をすくおうとする。けれど、反対にその何万倍もの人たちが貴殿を静かに見守っていることを忘れないでいてほしい」
一瞬、涙腺が緩み、返す言葉が出てきませんでした。
温かいもてなしは軍や政府、知識人の旧友に会ったときも同様でした。街中のカフェでも一般の方から「お帰りなさい」という言葉を頂戴しました。こうした中国人の懐の深さは、なかなか日本では知られていない一面かもしれません。
山崎豊子さんの『大地の子』ではありませんが、約10年間、青春時代を過ごし、闘ってきた中国は、ぼくを育ててくれた場所であり“第二の故郷”でもある。ここで自分という人間の存在意義を知り、日中両国のために何をすべきか、何ができるか考えてきた。尖閣諸島問題や歴史認識をめぐって日中関係は依然緊迫していますが、ぼくはこれからもこの土地に真心を持って接し、自分なりにできることを明確にして、誇りを持って向き合っていきたい。そんな決意を新たにした“帰省”でした。
久しぶりの訪問を皮切りに、この夏は中国に計3回、のべ2週間ほど滞在しました。習近平政権の最初の半年間が人々にどう評価されているのかは次回に書きたいと思いますが、少なくとも北京の街に漂う雰囲気は1年前とさほど変わらない。黄砂で濁った大気のなかで、人々は新政権の動きなどとは関係なく、勤勉に働いている。新しい建物や駅は日々増えていますが、こうして変わり続けていくこと自体が中国の“日常”なのでしょう。
現在はアメリカに拠点を置いているぼくですが、日本や中国に帰ると「お帰りなさい」と言ってもらえる。国際人として、これより幸せなことがあるというなら逆に教えて!!
今週のひと言
約1年ぶりに中国の地を踏み、
自分の原点を再確認しました!
●加藤嘉一(かとう・よしかず)
日本語、中国語、英語でコラムを書く国際コラムニスト。1984年生まれ、静岡県出身。高校卒業後、単身で北京大学へ留学、同大学国際関係学院修士課程修了。2012年8月、約10年間暮らした中国を離れ渡米。現在はハーバード大学アジアセンターフェロー。最新刊『不器用を武器にする41の方法』(サンマーク出版)のほか、『逆転思考 激動の中国、ぼくは駆け抜けた』(小社刊)など著書多数。中国の今後を考える「加藤嘉一中国研究会」がついに発足! 【関連記事】
・加藤嘉一「自分の“拠点”をどこに定めるか。人生において大切な選択です!」
・加藤嘉一「アメリカも中国も関係なく、『憲法』は国内問題として処理すべきです!」
・加藤嘉一「政治的にも経済的にも文化的にも、中国は“地域限定の開国”しかできていない」
・米韓FTAで、韓国は“アメリカの植民地”になった
・「中国非難決議」採択も、アメリカの本音は「尖閣のために中国と戦争する気はない」
思いもかけない歓待を受けると、人は素直に感動するもの。それが自分と因縁のある土地や人であるならなおさらだ。
アメリカに拠点を置いて約1年。この夏を迎えるまで、ぼくはあえて中国と距離をとっていた。しかし、米中関係を研究する以上、習近平(しゅうきんぺい)体制となった現地の空気を肌で感じる必要性は常に認識していた。そんな折、かつて頻繁に仕事をしていたCCTV(中国中央電視台)などから誘いを受け、久しぶりに“里帰り”してみることにしたのです。
約1年ぶりに降り立った北京空港。もちろん懐かしさはありましたが、心境は複雑です。ぼくは中国で言論活動を行なう日本人として、当局からマークされていた存在。果たして無事に入国できるのか。
出入国審査場へ行き、パスポートを差し出すと、男性係員が険しい表情で質問してきます。
「あなたは北京語が話せますか?」
はい、大丈夫です。
「どこで勉強したんですか?」
北京大学で勉強しました。
こういった定型のやりとりの後、係員は急に表情を緩め、意外な言葉を口にしました。
「お帰りなさい、加藤さん」
最初は何を言われているのかわかりませんでした。係員はパスポートに入国許可のスタンプを押しながら続けます。
「あなたの書くものはよく読んでいます。日本人だから大変だと思うけど、少なくとも私は応援しています」
素直に感動しました。
自らの意思でいったん別れを告げたこの土地がぼくをどう見ているのか、どの面(つら)下げて帰ればいいのか、正直言って不安だった。それが杞憂に終わったどころか、予想もしていなかった親身な言葉までかけてもらえたのですから。
CCTVのインタビューを受けたときも、懇意にしているディレクターからこう言われました。
「あなたは自分で思っている以上に中国で影響力のある人だ。だからこの国の人間は、加藤さんを誹謗中傷したり足をすくおうとする。けれど、反対にその何万倍もの人たちが貴殿を静かに見守っていることを忘れないでいてほしい」
一瞬、涙腺が緩み、返す言葉が出てきませんでした。
温かいもてなしは軍や政府、知識人の旧友に会ったときも同様でした。街中のカフェでも一般の方から「お帰りなさい」という言葉を頂戴しました。こうした中国人の懐の深さは、なかなか日本では知られていない一面かもしれません。
山崎豊子さんの『大地の子』ではありませんが、約10年間、青春時代を過ごし、闘ってきた中国は、ぼくを育ててくれた場所であり“第二の故郷”でもある。ここで自分という人間の存在意義を知り、日中両国のために何をすべきか、何ができるか考えてきた。尖閣諸島問題や歴史認識をめぐって日中関係は依然緊迫していますが、ぼくはこれからもこの土地に真心を持って接し、自分なりにできることを明確にして、誇りを持って向き合っていきたい。そんな決意を新たにした“帰省”でした。
久しぶりの訪問を皮切りに、この夏は中国に計3回、のべ2週間ほど滞在しました。習近平政権の最初の半年間が人々にどう評価されているのかは次回に書きたいと思いますが、少なくとも北京の街に漂う雰囲気は1年前とさほど変わらない。黄砂で濁った大気のなかで、人々は新政権の動きなどとは関係なく、勤勉に働いている。新しい建物や駅は日々増えていますが、こうして変わり続けていくこと自体が中国の“日常”なのでしょう。
現在はアメリカに拠点を置いているぼくですが、日本や中国に帰ると「お帰りなさい」と言ってもらえる。国際人として、これより幸せなことがあるというなら逆に教えて!!
今週のひと言
約1年ぶりに中国の地を踏み、
自分の原点を再確認しました!
●加藤嘉一(かとう・よしかず)
日本語、中国語、英語でコラムを書く国際コラムニスト。1984年生まれ、静岡県出身。高校卒業後、単身で北京大学へ留学、同大学国際関係学院修士課程修了。2012年8月、約10年間暮らした中国を離れ渡米。現在はハーバード大学アジアセンターフェロー。最新刊『不器用を武器にする41の方法』(サンマーク出版)のほか、『逆転思考 激動の中国、ぼくは駆け抜けた』(小社刊)など著書多数。中国の今後を考える「加藤嘉一中国研究会」がついに発足! 【関連記事】
・加藤嘉一「自分の“拠点”をどこに定めるか。人生において大切な選択です!」
・加藤嘉一「アメリカも中国も関係なく、『憲法』は国内問題として処理すべきです!」
・加藤嘉一「政治的にも経済的にも文化的にも、中国は“地域限定の開国”しかできていない」
・米韓FTAで、韓国は“アメリカの植民地”になった
・「中国非難決議」採択も、アメリカの本音は「尖閣のために中国と戦争する気はない」