◆「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第41回
“マッチョマン”ランディ・サベージがビンス・マクマホンと初めて契約交渉のミーティグをおこなったのは、“レッスルマニア”第1回大会から約2カ月後、1985年6月17日のことだった。ビンス・マクマホンは、サベージに“聖書”くらいの厚さの契約書を提示し、WWEのメインイベンターのポジションを約束した。
サベージはこのときすでにキャリア11年、32歳の“無名のベテラン”だった。1952年11月15日、フロリダ州サラソタ出身(資料によってはイリノイ州ダウナーグローブ出身)。本名ランディ・ポッフォ。少年時代からベースボールに熱中し、ハイスクールを卒業と同時にシンシナティ・レッズとマイナー契約を交わし、キャッチャーとしてレッズ、カージナルス、ホワイトソックスの2Aに通算5シーズン在籍後、1974年に父アンジェロ・ポッフォのコーチを受けプロレスに転向した。
デトロイト、ジョージア、フロリダをサーキット後、1978年に父アンジェロが設立したインディペンデント団体ICW(インターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング=ケンタッキー州レキシントン)に合流。サベージ=野獣というリングネームはルーキー時代にオレイ・アンダーソンがつけてくれた“あだ名”で、“マッチョマン”は母親が定期購読していた『リーダース・ダイジェスト』誌に載っていた“流行語リスト”から拝借したものだった。
父アンジェロは1940年代後半から1970年代後半まで30年以上にわたり現役として活躍した息の長いレスラーで、全盛期には伝説のTVショー“レスリング・フロム・マリゴールド”(ドゥモン・ネットワーク=シカゴ)にレギュラー出演。腹筋運動の世界記録保持者としてギネスブックに登場した人物としても知られている。
“アンチNWA”をスローガンに反体制団体をプロデュースしたため、1970年代以降は全米のNWA加盟団体=カルテルを敵にまわした。サベージほどのレスラーがデビューから約10年間、南部のインディー・シーンに埋もれていたのはそういった政治的背景があった。
ICW崩壊後、サベージは1983年にライバル団体のテネシーCWA(ジェリー・ジャレット派)に移籍。ジェリー“ザ・キング”ローラーとの因縁ドラマがテネシーの名物カードとなり、この試合のビデオがビンスの目にとまった。
ビンスとミーティングをおこなってから4日後、サベージはニューヨーク・ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンのリングに立っていた(1985年6月21日)。同大会のメインイベントはハルク・ホーガン対ドン“マグニフィセント”ムラコの金網マッチ。サベージは全9試合中、第5試合というポジションでリック・マグロー(故人)と対戦した。
“マッチョマン”とは、強さやたくましさや大胆さを誇示したがる男性を表すスペイン語オリジンの形容詞である。ビンスは、ともすると男尊女卑的なイメージを連想させるこのニックネームをおもしろがった。“マッチョマン”にいちばん必要なものは、そのマッチョな心をコントロールする美しい女性の存在。それはひじょうに古典的な“美女と野獣”のコンセプトだった。
サベージとその妻エリザベスは1984年12月にすでに結婚していたが、テレビの画面のなかではその事実は“削除”された。TVマッチのデビュー戦ではサベージがボビー・ヒーナン、ミスター・フジ、ジミー・ハートといった悪党マネジャーからの“契約オファー”を断り、新顔のエリザベスを専属マネジャーに指名するという長編ドラマの予告編のような演出が用意された。
それまでのヒール系の女性マネジャーとエリザベスの決定的なちがいは、エリザベスが台詞をいっさいしゃべらない“女優”としてそこに立っていたことだった。
サベージに寄り添うエリザベスは清純で品がよく、どこかはかなげなイメージだった。DIVAというコンセプトがまだ存在しなかった時代の元祖DIVAは、こうして誕生したのだった。(つづく)
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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