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三浦展の「東京のつくられ方」散歩:「東京五輪がいまひとつ盛り上がらない理由」を東京論の視点から考える

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1964年の東京オリンピックからすでに50年近く。つまり今の日本人の過半数は、64年の東京オリンピックを知らない。まして2020年になったら、ほとんどの人はかつての東京オリンピックを知らないことになる。だから、私は個人的には2020年の東京オリンピック誘致には賛成である。ぜひ来て欲しいと思っている。

1964年のオリンピック開催時、日本武道館や国立代々木競技場などの会場が作られ、首都高速やモノレールや新幹線が開通した。しかし最も恩恵を受けた地域は、五輪のメイン会場や、選手村となったワシントンハイツ(現在の代々木公園やNHK放送センターを含むエリアで、もとは代々木練兵場跡だったが、戦後は米軍司令部関係者の家族宿舎として使われた)があった千駄ヶ谷、青山、代々木、渋谷エリアから、第2会場となった駒沢公園や、馬術が行われた馬事公苑へとつながる、国道246号線沿線地域であろう。

赤坂見附から渋谷までをつなぐ青山通りは、オリンピック開催までは都電(路面電車)が走っていたが、オリンピック開催に合わせた東京の都市大改造の中で、クルマ社会に対応するために都電は廃止され、道路の幅も広げられた(都電は青山通りに限らず1963年までにほとんどが廃止され、以来、荒川線が残るだけである)。



NHKは、1938年から内幸町に本部があったが、ワシントンハイツ返還後、そこに「五輪放送センター」を設立。1973年には内幸町本部を閉鎖して、全面移転する。これによって日本中の人々が毎日渋谷区という地名を聞くようになった。東京の中心は日本橋、銀座方面にあったが、オリンピック以来、青山、渋谷、世田谷方面の開発が進み、東京の重心が次第に西側に移動していったと言えるのである。

オリンピックという国際的な一大イベントの開催は、それら西側地域のイメージをも国際化した。洒落たレストランやブティックが青山、渋谷、世田谷といった地域に増えていった。ワシントンハイツに隣接していた原宿は、もともと米軍の払い下げ品や、米軍向けに物を売る店が栄えていたが、オリンピック以降はさらに、欧米の雰囲気を漂わせる洒落た街に変わっていった。そして世田谷もいつしかおしゃれな街と言われるようになっていった。

当時の雑誌を見ると、これらの地域がオリンピック以降1970年代にかけて、次第に注目されるようになっていったこともわかる。1965年の「特集 青山・原宿は、イカした君たちの街 東京のニュー・プレイタウンを楽しもう」(漫画サンデー1月6日号)という記事はかなり早い。70年代になると「麻布・青山・六本木 新しいTOKYOのプレイタウン」(月刊ペン72年12月号)、「原宿・青山・渋谷 “進んでる”女の子を誘う東京の気取った飾り窓」(週刊朝日73年10月26日号)、「セントラル・アパートのNOWな昼と夜 よみがえるヤング・ファッションの震源地 東京・原宿」(平凡パンチ73年6月25日号)など、原宿、青山、渋谷の記事が増える。

さらに1975年を過ぎると「わたしがガイドするすてきな街・ステキな店 自由が丘」(女性セブン75年6月18日号)、「グラビア 続・東京のおしゃれ通り地図帳 自由が丘、下北沢」(女性自身76年3月4日号)、「ニューファミリー 東京じてんしゃ小旅行 駒沢公園から自由が丘へ」(週刊文春77年6月16日号)というように、駒沢、下北沢といった世田谷区の街と自由が丘も記事になっていく(自由が丘は目黒区だが、世田谷区奥沢、等々力と隣接している)。当時流行り始めていたニューファミリーという言葉が、駒沢、自由が丘という、ちょっとリッチな地域を結び付けられているのが興味深い。

また、繁華街だけでなく、世田谷区を代表する高級住宅地である成城学園についても、「特集 徹底ルポ 有名スター、著名人の集まり住む街 ・・・最高住宅地“東京都世田谷区成城”」(週刊平凡、77年10月20日号)といった記事が登場する。そして77年に東急新玉川線(現・田園都市線)が渋谷から二子玉川まで開業したのを機に、「新玉川線は新しい若者エリアだ」(女性自身77年12月15日号)、「グラビア 2人で歩くか、1人で歩くか 東京『新しい街』ガイド 二子玉川」(週刊現代 78年4月20日号)といった記事も増えていく。



このように東京オリンピック直後から10数年かけ、渋谷、原宿、青山、駒沢、下北沢、成城、二子玉川、自由が丘といった地域が新しいおしゃれな街、若者の街として注目されていく。これらの街は、オリンピックがつくり出した新しい日本の街、東京の街だと言えるだろう。そこには青山通り、国道246号線、目黒通りなどの広く新しい自動車道があり、そこをドライブすることが、カッコイイ若者のライフスタイルになった。これらの街が、日本の中でもいち早く、クルマのある新しいライフスタイルが広がる地域になったのである。

当時まだ高級だったクルマを買えるのは、医者、経営者、そして芸能人やスポーツ選手である。今からは想像しにくいが、当時は、芸能人やスポーツ選手がドライブをするシーンは、ものすごくカッコよくて、若者は誰もがクルマにあこがれたのである。たとえば成城学園には、石原裕次郎、三船敏郎、加山雄三、田村正和、大原麗子、宍戸錠、山本リンダらが住んでいた。そういう芸能人、スポーツ選手が、世田谷区や目黒区に住み、高級車を乗り回すようになることで、次第に世田谷区、目黒区のイメージが上がっていったのだと思われる。実際、世田谷区、目黒区は、都心に次いで、東京の中で最も高級外車の多い地域である。

自動車というと現在は地方のほうが多く普及しているが、昔は違った。2013年の全国の乗用車保有台数5936万台のうち、東京都は約5%の312万台だが、1966年は全国229万台のうち東京都は約22%の50万台だった。クルマは都会のものだったのだ。

もっとも、高級外車は今でも東京中心だ。自動車検査登録協会の「市町村別・ブランド別輸入車保有台数」によると都道府県別のメルセデス・ベンツ保有台数は東京で118,228台(2006年3月現在)。日本全国の19%を占める。東京23区で人口当たりベンツ台数が多いのは、千代田区、港区、渋谷区、中央区、目黒区、世田谷区の順である。

このように、オリンピックによる東京改造と自動車道路網の整備は、クルマのある新しいライフスタイルを広げることにもなり、そのパイオニアのひとつとして世田谷区、目黒区が台頭していったと言えるであろう。



面白いのは、同じ「西側」の区でも、世田谷区や目黒区、東急沿線の街がおしゃれな街として注目されていくのに対して、杉並区や中央線沿線はそうではなかったという点だ。「女子大生のメッカ 東京・西荻窪 地味でマジメで勉強が好き」(平凡パンチ 75年3月3日号)、「中央沿線で強く美しく生きる法 青春の証明とは、大盛りどんぶり飯をたいらげることなり 高円寺」「文化とは貧しさの中からこそうまれてくるものなのだ 阿佐ヶ谷」「飯屋、飲み屋のおじさんおばさんこそが君が人生の師なり 荻窪」(angle 78年11月号)など、おしゃれではない街、貧しい街として描かれている。そして、1980年代には、おしゃれでナウい世田谷に対して、地味でダサい中央線という認識が定着していった。こうした認識の背景に、東京オリンピックによる東京改造にあったと考えられるのである。

しかし、2013年の現在、確かに今も世田谷はおしゃれだと思われているが、中央線はそれほどダサいとは思われなくなった。そもそも、ナウい、ダサいという基準があまり重視されなくなった。それは、現在の東京が、東京オリンピック前後から1980年代までのような成長期になく、すでに成熟期に入っているからであろう。欧米のような街がかっこいい、かっこいいクルマがたくさん走っている街がおしゃれだという価値観も弱まっている。中央線でまったり散歩するというライフスタイルが昔よりも人気になっている。

2020年に東京オリンピックが誘致できたとして、それは東京を変えるだろうか。変えるとしたら、どう変えるだろうか。それは単に道路が整備され、密集地域が再開発されるというものではないはずだ。ではどう変わるのか。そのイメージが湧かないことが、オリンピック誘致の気運を盛り上げられない一つの理由であるとは言えないであろうか。

●三浦展(みうら・あつし)1958年生まれ。新潟県出身。消費社会研究家。『下流社会』『第四の消費』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『データでわかる2030年の日本』など著書多数

[連載]三浦展「東京のつくられ方」散歩






【http://wpb.shueisha.co.jp/category/miura/】 【関連記事】
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