写真は「ヴァグラムの戦い」を描いたもので、作品のモチーフになったヴァグラムの戦いは、ウィーン北東15キロにあるドナウ川北岸の町ヴァグラムの周辺地域を舞台にして、ナポレオン率いるフランス軍とカール大公率いるオーストリア軍との交戦で、数多いナポレオン戦争における戦闘のなかでも壮絶な戦いであったことで注目されました。
また、ナポレオンが皇帝に就いて5年目という公私ともに充実していた時期の戦いだっただけに、1809年7月5日から7月6日という僅か2日間で勝利をあげた戦いとしても歴史に残るのですが、実はそこにはドラマがあり、今でも語り継がれている所以となっています。
ここはヴェルサイユ宮殿の一角、元は王子の居室群があった南翼の2階部分(幅13メートル、長さ120メートル)に設営された『戦いの回廊』です。回廊は1837年にルイ・フィリップ王により、496年のトルビアックの戦いから1809年のヴァグラムの戦いまでの約1500年間に渡るフランス軍の栄光の歴史を語るために改装され、内部にはこの作品を含めた巨大な戦場画35点が飾られています。
ルイ・フィリップ王が選んだそれらの作品の中には、ウジェーヌ・ドラクロワ作の「タイユブールの戦いの聖王ルイ」はじめ、フランソワ・ジェラール作の「アンリ4世のパリ入城」など美術作品としても見逃せないものも多く、美術鑑賞に格好の場所として人気が集まります。
写真のこの作品に描かれている「ヴァグラムの戦い」(1809年7月5日〜7月6日)は、皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍とカール大公率いるオーストリア軍が戦ったもので、フランス軍が勝利し、敗北したオーストリアはシェーンブルンの和約を結んでの屈服となりました。
とはいうものの、ナポレオンが勝利したとはいえ、僅か2日間の戦いの中でフランス軍兵18万、オーストリア軍兵15万という大軍同士が激突し、その結果、両軍合わせて7万人以上の死傷者を出したという、壮絶なものであったのです。
ナポレオン側もオーストリア側もいかに、死を決しての戦いであったかは、死者の数を見ても解るのですが、それには訳があったのです。
戦いの数ヶ月前の5月21日~22日の対オーストリア軍との「アスペルン・エスリンクの戦い」で、ナポレオンは自分の指揮による戦いで、初めての敗北を味わったからです。初めて参謀を務めただけにその屈辱は大きく、言葉にはならなかったほどでした。
ですから、彼にとって参謀としての戦い2回目となるこの“7月の戦い”では、どんな理由であれ、敗北をしてはならなかったし、勝たなければいけなかったのです。敗戦して皇帝としてのプライドを失うわけにはゆかなかったのです。
ですから、ナポレオンは僅か2ヶ月間で入念の準備をし、戦略も念入りに企て、満を持して戦いに挑みました。
でも、決死の戦いという思いはオーストリア側も同じだったのです。
2か月前に戦った相手です。若いナポレオンとの二度目の戦いです。どんなことをしても負けるわけにはゆきません。
お互いにそんな思いでしたから、死闘となることは承知していたのでしょう、多数の戦士の犠牲が想像できても、戦わなければいけない宿命にあったのです。
ですから、ヴァグラムの戦いは、あまりの犠牲者の多さにこの回廊を造ったルイ・フィリップ王の「フランスの栄光を想起させるため、帝政、共和政時代に起きた戦いの35面の巨大な戦場画を並べるため」という部屋の改修時のコンセプトに値するか否か、首をかしげたくもなるのですが。
でも、これは今回だけではなく、長年の宿敵だったオーストリアを倒したということと、死闘の末、勝ちを取った戦いであるとはいえ、ヨーロッパにおける当時のフランスの力の強さを最大限、知らしめた戦いでもあります。名勝のひとつと言えるのかもしれません。
また、皇帝の座に10年間就いたナポレオンにとって、この戦いは絶頂期の折り返し地点という重要なものとなったことは確かで、この戦いの後、1814年のベルギーのワーテルローの戦いで、敗北して失脚するまでの後半の5年間を過ごすことになるのです。
そして、後半5年間は、前半の5年とは異なり、戦いで苦境に立たされることもあり、多くの苦しみにも出遭うのです・・・。
《余談》ナポレオンは1796年、27歳で最初の妻、皇后ジョゼフィーヌと結婚しますが、後嗣を生めないと言う理由で1810年1月に離婚し、同年、オーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚します。ナポレオンは当時若かったこともあり、ジョゼフィーヌが年上で二度目の結婚にも関わらず、一方的に好きになっての結婚だったことで、彼女に褒められたい為に頑張り、いずれの戦いも勝利に次ぐ勝利を重ねました。でも、先程も申しましたが、皇帝として生きた10年間のちょうど半分にあたる1810年を機にして戦いに負け始め、苦戦を強いられるようになるのですが、それは時を同じくして、マリ・ルイーズと再婚してからのこととなります。ですから、最初の妻ジョゼフィーヌはナポレオンにとって勝利の女神的な存在であり、二番目の妻は負けを呼ぶ貧乏神だった、と巷では噂されていたのです。
ナポレオンが皇帝として生きた10年間は終始“戦いの日々”でありましたが、でも、彼は皇帝としてそれだけで生きてはいませんでした。
戦いの合間を縫って、1800年にはフランス銀行を設立し、国内の通貨と経済の安定を図ります。また、1802年には現在もフランスの最高勲章として存在している「レジオンドヌール勲章」を創設。1804年には“万人の法の前の平等・国家の世俗性・信教の自由・経済活動の自由”などと謳った「フランス民法典=ナポレオン法典」の公布、その他、「公共教育法」制定、交通網の整備など数えきれないほど、内政の整備や改革を行っているのです。
フランスの歴史上の人物でもっとも尊敬されるひとりであり、未だ英雄であり続けるナポレオンですが、後半は負けの多い戦績であっても、ローマ帝国と同じく、その武力でヨーロッパの大半を手中に収めた時期もあるのです。
やはりナポレオン1世は素晴らしい皇帝でした。そして、二度とこの世に出てこない頭脳明晰な英雄であったと思います・・・。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
また、ナポレオンが皇帝に就いて5年目という公私ともに充実していた時期の戦いだっただけに、1809年7月5日から7月6日という僅か2日間で勝利をあげた戦いとしても歴史に残るのですが、実はそこにはドラマがあり、今でも語り継がれている所以となっています。
ここはヴェルサイユ宮殿の一角、元は王子の居室群があった南翼の2階部分(幅13メートル、長さ120メートル)に設営された『戦いの回廊』です。回廊は1837年にルイ・フィリップ王により、496年のトルビアックの戦いから1809年のヴァグラムの戦いまでの約1500年間に渡るフランス軍の栄光の歴史を語るために改装され、内部にはこの作品を含めた巨大な戦場画35点が飾られています。
ルイ・フィリップ王が選んだそれらの作品の中には、ウジェーヌ・ドラクロワ作の「タイユブールの戦いの聖王ルイ」はじめ、フランソワ・ジェラール作の「アンリ4世のパリ入城」など美術作品としても見逃せないものも多く、美術鑑賞に格好の場所として人気が集まります。
写真のこの作品に描かれている「ヴァグラムの戦い」(1809年7月5日〜7月6日)は、皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍とカール大公率いるオーストリア軍が戦ったもので、フランス軍が勝利し、敗北したオーストリアはシェーンブルンの和約を結んでの屈服となりました。
とはいうものの、ナポレオンが勝利したとはいえ、僅か2日間の戦いの中でフランス軍兵18万、オーストリア軍兵15万という大軍同士が激突し、その結果、両軍合わせて7万人以上の死傷者を出したという、壮絶なものであったのです。
ナポレオン側もオーストリア側もいかに、死を決しての戦いであったかは、死者の数を見ても解るのですが、それには訳があったのです。
戦いの数ヶ月前の5月21日~22日の対オーストリア軍との「アスペルン・エスリンクの戦い」で、ナポレオンは自分の指揮による戦いで、初めての敗北を味わったからです。初めて参謀を務めただけにその屈辱は大きく、言葉にはならなかったほどでした。
ですから、彼にとって参謀としての戦い2回目となるこの“7月の戦い”では、どんな理由であれ、敗北をしてはならなかったし、勝たなければいけなかったのです。敗戦して皇帝としてのプライドを失うわけにはゆかなかったのです。
ですから、ナポレオンは僅か2ヶ月間で入念の準備をし、戦略も念入りに企て、満を持して戦いに挑みました。
でも、決死の戦いという思いはオーストリア側も同じだったのです。
2か月前に戦った相手です。若いナポレオンとの二度目の戦いです。どんなことをしても負けるわけにはゆきません。
お互いにそんな思いでしたから、死闘となることは承知していたのでしょう、多数の戦士の犠牲が想像できても、戦わなければいけない宿命にあったのです。
ですから、ヴァグラムの戦いは、あまりの犠牲者の多さにこの回廊を造ったルイ・フィリップ王の「フランスの栄光を想起させるため、帝政、共和政時代に起きた戦いの35面の巨大な戦場画を並べるため」という部屋の改修時のコンセプトに値するか否か、首をかしげたくもなるのですが。
でも、これは今回だけではなく、長年の宿敵だったオーストリアを倒したということと、死闘の末、勝ちを取った戦いであるとはいえ、ヨーロッパにおける当時のフランスの力の強さを最大限、知らしめた戦いでもあります。名勝のひとつと言えるのかもしれません。
また、皇帝の座に10年間就いたナポレオンにとって、この戦いは絶頂期の折り返し地点という重要なものとなったことは確かで、この戦いの後、1814年のベルギーのワーテルローの戦いで、敗北して失脚するまでの後半の5年間を過ごすことになるのです。
そして、後半5年間は、前半の5年とは異なり、戦いで苦境に立たされることもあり、多くの苦しみにも出遭うのです・・・。
《余談》ナポレオンは1796年、27歳で最初の妻、皇后ジョゼフィーヌと結婚しますが、後嗣を生めないと言う理由で1810年1月に離婚し、同年、オーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚します。ナポレオンは当時若かったこともあり、ジョゼフィーヌが年上で二度目の結婚にも関わらず、一方的に好きになっての結婚だったことで、彼女に褒められたい為に頑張り、いずれの戦いも勝利に次ぐ勝利を重ねました。でも、先程も申しましたが、皇帝として生きた10年間のちょうど半分にあたる1810年を機にして戦いに負け始め、苦戦を強いられるようになるのですが、それは時を同じくして、マリ・ルイーズと再婚してからのこととなります。ですから、最初の妻ジョゼフィーヌはナポレオンにとって勝利の女神的な存在であり、二番目の妻は負けを呼ぶ貧乏神だった、と巷では噂されていたのです。
ナポレオンが皇帝として生きた10年間は終始“戦いの日々”でありましたが、でも、彼は皇帝としてそれだけで生きてはいませんでした。
戦いの合間を縫って、1800年にはフランス銀行を設立し、国内の通貨と経済の安定を図ります。また、1802年には現在もフランスの最高勲章として存在している「レジオンドヌール勲章」を創設。1804年には“万人の法の前の平等・国家の世俗性・信教の自由・経済活動の自由”などと謳った「フランス民法典=ナポレオン法典」の公布、その他、「公共教育法」制定、交通網の整備など数えきれないほど、内政の整備や改革を行っているのです。
フランスの歴史上の人物でもっとも尊敬されるひとりであり、未だ英雄であり続けるナポレオンですが、後半は負けの多い戦績であっても、ローマ帝国と同じく、その武力でヨーロッパの大半を手中に収めた時期もあるのです。
やはりナポレオン1世は素晴らしい皇帝でした。そして、二度とこの世に出てこない頭脳明晰な英雄であったと思います・・・。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)