◆「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第37回
キーワードは“ハルカマニアHulkamania=ハルク狂時代”である。だれがそれをいいはじめたのかというと、ハルク・ホーガン自身だった。
定番のフレーズは「ハルカマニア・イズ・ランニング・ワイルド Hulkamania is running wild」。無理やり和訳するとしたら「ハルク狂が大暴走だぜ」といったニュアンスになるのだろう。
MTV特番の第2弾“ザ・ウォー・トゥー・セトル・ザ・スコア”(1985年2月18日放映=マディソン・スクウェア・ガーデン)は、ケーブルTVにおけるプロレス番組の新記録となる9.1パーセントという驚異的な高視聴率をはじき出した。この記録は同番組放映から30年以上が経過した現在でもまだ破られていない。
シンディ・ローパーと並ぶもうひとりのゲスト・セレブリティーとして、MTV特番にはアクション映画俳優のミスターTが登場した。女性ロック・シンガーのローパーとミスターTの“使い勝手”のちがいは、ミスターTがプロレスラーに変身できそうなヘビー級のアスリートだったことだ。
このMTV特番から3日後、こんどはネットワークTV(地上波)のABCが人気番組“20/20”で“プロレスの秘密が今夜明かされる”という特集をオンエアした。
番組の内容は、元プロレスラーのエディ・マンスフィールドという人物がゲストとして登場し、テレビカメラのまえでカミソリの刃で自分の額を切るといったものだった。
同番組のリポーター、ジョン・スタッセルがガーデンのバックステージで選手にコメントを求め、デビッド・シュルツがこのリポーターを殴打するという“想定外のシーン”も映像に収められていた。
プロレス・ブームが社会現象として大きなうねりを起こしていたことを証明するひとつの“テレビ的分析”ということになるのだろう。
ひじょうにパラドックス的ではあるが、アメリカでは「プロレスはスポーツかショーか」という議論は1980年代前半にすでに終わっていた。マスメディアのインタビュー取材を受けるたびに、ビンス・マクマホンはプロレスとプロレス・ブームを「アメリカそのもの。アメリカーナです」と定義した。“スポーツ・エンターテインメント”という単語が活字になりはじめたのもこのころだった。
すっかり“時の人”となったホーガンは、“ジョニー・カースン・ショー”“デビッド・レターマン・ショー”“サタデーナイト・ライブ”といったネットワークTVの人気番組に毎晩のようにゲスト出演し「ハルカマニアだ、レッスルマニアだ」を連呼した。
“レッスルマニア”の記念すべき第1回大会(1985年3月31日=マディソン・スクウェア・ガーデン)の目玉企画は、いうまでもなくホーガンとミスターTのタッグチーム結成。“レッスルマニア”というイベント名は、“ハルカマニア”から派生した造語だった。
ビンスは“レッスルマニア”のクローズド・サーキット上映用のロケーションとして全米200都市の映画館、劇場をブッキングした。いまから30年まえはインターネット上の動画配信サービスどころかケーブル回線によるPPV(ペイ・パー・ビュー=契約式有料放映)というテクノロジーさえまだ実用化されていなかった。
アメリカでもっともポピュラーなスポーツ雑誌“スポーツ・イラストレーテッド”(1985年4月29日号)がWWEを密着取材し、カラーグラビア20ページを使ってプロレス・ブームの特集記事を組んだ。もちろん、表紙はホーガンだった。
“レッスルマニア”のメインイベントは、ホーガン&ミスターT対ロディ・パイパー&ポール・オーンドーフのタッグマッチに正式決定した。ミスターTはプロレスの試合をすることに不安を感じ、大会開催の数日まえになってビンスに出場辞退を申し入れた。
ビンスは「ホーガンにまかせておけば大丈夫」と返答したという。“史上最大のショー”がいよいよはじまろうとしていた。(つづく)
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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